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歴史・伝統

 船頭重吉が尾張の国小嶋屋庄右衛門の船に米や商いの品を積み、江戸に向けて師崎を出航したのは、文化10年10月のことでした。その月の終わりに江戸を出て帰路につき、11月4日、遠州灘で嵐に見舞われたのです。夜に入って雨風は激しさを増し、乗組員の一人が海に転落。助けるすべもないまま船は猛烈な早さで風に流され、舵を折られて漂流をはじめました。
 やがて嵐は治まったものの、船はすでに八丈島を遠く北に見やるほど南へと流されていました。重吉は食料の分配法を決め、日記をつけはじめました。まもなく飲み水が欠乏。蒸留水を作って乾きをしのぎますが、このころ船は赤道付近まで流されていました。


 ついに洋上で正月を迎え、乗組員13名、生きて帰ることができたら自分たちの供養碑を建立しようと、互いに約束を交します。しかし3月には全員が病に倒れ、5月から6月にかけて次々と仲間たちが息を引き取り、重吉、音吉、半兵衛の3名だけがかろうじて死を免れることとなったのです。
 2度目の新年を迎えて1ヵ月ほどたった頃、重吉は夢かうつつか、不思議な体験をします。深夜に二人の白装束の僧侶が現われ、救出されることをほのめかして、ふっと消えたのです。明け方前にもう一度同じことが起こり、神のお告げかもしれないと考えて、夜明けから海の彼方をじっと眺めていると、西南の方角に外国船とおぼしき船の姿が見えるではありませんか。それはイギリス船ホーストン号でした。時は文化12年2月14日、漂流を続けること17ヵ月にして、やっと救いの手が差し伸べられたのです。喜びをかみしめる重吉たちでしたが、故郷の地を踏むまでにはまだ長い年月を要することを、この時には知る由もありませんでした。
 カナダ、アラスカを経てカムチャツカで長い冬を過ごし、翌年6月には半兵衛が病死します。残る重吉と音吉はさらにウルップ、エトロフへと移動し、クナシリからノッケ岬へと護送され、根室を経てようよう松前へと到着したのが9月のこと。12月には江戸で取り調べを受け、翌年4月に尾張藩に引き渡されて、明くる5月、やっと足掛け5年にわたる旅を終え、半田村に帰りついたのでした。生還者は14名中わずか2名。17ヵ月におよぶ漂流は、今も世界記録となっています。
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